ティーガーIはドイツ軍の守護神的重戦車である。
100ミリにおよぶ装甲や強力な88ミリ砲の威力で、出現当時は文字通り「無敵」であった。
56トンという大重量ではあったが、重戦車にしては比較的良好な機動性を保持しており、北アフリカから東部戦線、西部戦線とあらゆる戦場で獅子奮迅の闘いぶりを見せた。
ミハエル・ビットマン、オットー・カリウスといったエースも、ティーガーIから生まれている。
ティーガーは強力な重戦車だったが、非常に高価でまたメンテナンスが大変でもあった。
価格は当時300.000ライヒスマルクだった。
ちなみにパンターの価格は125,000ライヒスマルク、III号戦車は96,200ライヒスマルク、IV号戦車が103,500ライヒスマルク、とティーガー1はダントツで高価であった。
当初の月産生産数は25輌程度のペースで、1944年4月には月産104輌まで増加していく、総生産数は1355両。
ティーガーは移動には自走を避け、できるだけ鉄道輸送を行うことを前提としていた。
自走移動の場合、前線での移動は10キロおきぐらいに、あらかじめ整備部隊を行軍経路に待機させ、整備しながら行軍した。
1個大隊(45両)のティーガーが移動するのに約1000名の整備員が必要だったという。
敵をアウトレンジするための強力な88ミリ砲だったが、実際の戦闘では近距離の戦闘を強いられることが多かったようだ。
遠距離から撃ち合えばT34を前面から1500メートルで撃破可能であった。
1943年7月12日のクルスク戦南部戦区プロホロフカの戦いは、史上最大の戦車戦として有名だが、ドイツ軍の守護神ともいうべきティーガーは僅かに12両しかなかった。
12日早朝時点のドイツ側『LSSAH』『ダスライヒ』『トーテンコプフ』の3個SS戦車師団の可動戦車数は下記の通りです。
各師団とも可動ティーガーの数は数両。
少ない!
■第1SS戦車師団(LSSAH)
・2号戦車4両
・3号戦車5両
・4号戦車47両
・ティーガー4両
・指揮戦車7両
・突撃砲10両
・7.5センチ自走Pak20両
■第2SS戦車師団(ダスライヒ)
・3号戦車38両
・4号戦車20両
・T34(捕獲車両)12両
・ティーガー2両
・指揮戦車10両
・突撃砲25両
・7.62センチ自走Pak9両
・7.5センチ自走Pak3両
■第3SS戦車師団(トーテンコプフ)
・3号戦車45両
・4号戦車25両
・ティーガー5両
・指揮戦車7両
・突撃砲25両
・7.5センチ自走Pak7両
SS戦車軍団もこの時点ではかなり消耗していたのだろう、3個師団合計で戦車は2号戦車も含めて230両しかない。
この他に突撃砲60両、自走Pakが39両。
合計329両。
ドイツ側の全戦車戦力におけるティーガーの割合は、27両に1両ということになる。
ソビエト側の記録による、「タイガータンクの群れと闘った」というような状況では全くない。
混乱の中で、シュルツェンのついた4号戦車は、全部「タイガータンク」に見えたのだろう。
ソビエト軍側だが、第5親衛機甲軍はT34だけで約300両、T70クラス約200両、この他にチャーチル、SU76が35両。
合計約535両。
ドイツ側は3号と4号戦車が主力でT34相手に戦車約300両の損害を与えたことを考えれば、やはり善戦したのはドイツ軍ということになるでしょう。
ドイツ機甲部隊強し。
ドイツ軍SS装甲軍団の12日のプロホロフカの損害は3個師団合計で約60両。
ティーガーの勇士といえばミハエル・ビットマンやオットー・カリウスが有名だが、クルト・クニスペル(Kurt Knispel)は知られざるティーガーの勇士である。
1922年チェコスロバキアに生まれ、1940年ドイツ陸軍に入隊、戦車兵としての教育を受ける。
訓練終了後、第12装甲師団、第29装甲連隊に配属され、4号戦車の砲手としてバルバロッサ作戦に参加した。
独ソ戦初期より、レニングラード、スターリングラードと転戦し撃破スコアーを伸ばしていった。
1943年ティーガーⅠ戦車の教育訓練を受け、503重戦車大隊に配属されチタデル作戦に参加した。
8日間の作戦中に砲手として、27両の戦車を撃破している。
この戦闘で砲手として3000メートルの距離からT34を撃破するという驚異的な射撃の腕前を見せている。
クルスク戦の後、西部戦線に移動、ノルマンディーの戦いに参加する。
このときは、503重戦車大隊はティーガー2型戦車を装備しており、彼の乗車車両もティーガー2だった。
ノルマンディー戦終了後、503重戦車大隊は東部戦線に移動、クニスペルは戦車長に昇進した。
クニスペルは東部戦線でアインザッツグルッペンの虐殺行為を目撃しナチスに対し不快感を抱いていたといわれ、上層部には受けが悪く娼婦を車内に連れ込むなど素行不良と見られており、すばらしい戦功にもかかわらず昇進は遅かった。
騎士十字賞に何度も推薦されながら受賞することはなかった。だが当人は受勲や名誉には関心のない人物だったといわれる。
敗戦が濃厚になり絶望的な戦況においてツェグレード、ケチケメート、グラン橋頭堡などの戦闘に参加。これらの戦闘で戦車24両を撃破した。
敗戦直前の1945年4月29日ボスティツの戦闘で命中弾により弾薬が爆発して重傷を負い、アーバウの野戦病院で死亡し付近に埋葬された。
彼の最終撃破スコアーは戦車168両という多数に上った。
未確認を含めれば195両撃破ともいわれる。
この数字はビットマンやカリウスの撃破スコアーを上回っている。
2013年4月にチェコ政府と歴史家による遺骨の掘り起こしが行われ、認識票からクニスペルと確認されウルノの戦没者墓地に再度埋葬された。
上3枚の人物写真はクルト・クニスペル。